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- 「カキ船」の記憶と系譜に関する民俗学的研究
瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ
活動の目的
カキ船とは、河川に船体を係留して客にカキ(牡蠣)料理を提供する屋形船のことである。近世期に、広島産のカキを積んで大阪で供したものがはじまりで、大正時代には大阪市内に約30艘のカキ船が営業していたのをはじめ、西日本を中心とする各地に多くのカキ船が存在していた。
そして、現在でも広島市、呉市、大阪市、松本市で合計5艘のカキ船が河川上での営業を行なっている。また、過去にカキ船であったものが陸上に移転してカキ料理店(その後、旅館等へ業態転換した事例を含む)となった事例(以下、「陸上がり系カキ料理店等」と表記)も各地に見出せる。本研究は、これらの現存するカキ船、および陸上がり系カキ料理店等を対象に、民俗学の方法による調査・分析を実施し、カキ船の来歴と現況、陸上がり系カキ料理店等の陸上り過程とその後の展開、カキ船・陸上がり系カキ料理店等の関係者における故地(広島市安芸区矢野・西区草津を出自の地とすることが多い)との関係のあり方等について実態を解明することを目的とする。
なお、カキ船に関して行われた先行研究としては、近世から昭和戦前期までの状況を扱ったものが1点あるが(片上1996)、第二次大戦後のカキ船の状況を取り上げて報告、考察したものは皆無である。
活動の経過
2013年4月から2014 年3月までの助成期間中に、①カキ船、②陸上がり系カキ料理店等、③カキ船の故地・関係地である広島市安芸区矢野・西区草津・南区仁保、④カキ船との比較対照資料となる東京湾の屋形舟、などを対象とした現地調査、文献等からの情報収集、および分析を実施した。
活動の成果
本研究によって得られた成果は数多い。それらの詳細は、別途、論文のかたちで公開することとし、紙数の関係から、ここでは主要な知見のみを紹介する。
1 広島市の元安川(平和大橋下流)には、左岸に「かなわ」が係留され営業を行っている。「かなわ」は、慶応年間からカキ養殖を行ってきた業者であるが、1962年に日宇那沖埋立事業の影響で同社のカキ種場が失われることとなり、その際に従業員の雇用対策等のために広島県の斡旋で元安川でのカキ船営業を開始した(1963年)。埋立事業がカキ船の創業と関わるのは、埋立事業によってノリ養殖業者が釣船に転業し、さらにその後、水質汚染による釣船不振を背景にしつつバブル経済期に屋形舟へと再転業した東京湾のケースを想起させ、比較の観点で重要な事例といえる。
2 元安川(平和大橋下流)には、もう一つ、右岸に「ひろしま」が係留されて営業中である。「ひろしま」は、戦前、呉服店やカフェを経営していた先々代が、1953年に猿候川で創業したカキ船だが、1967年に区画整理によって現在地へ移転してきた。
3 呉市の堺川(五月橋下流)には「居酒屋かき舟」が係留され営業している。1984年に、それまで「かき龍」という名であったカキ船(1910年建造)を現在の経営者が購入したもの。この経営者は、カキ船を「広島の産業文化遺産」としてとらえ、この伝統を継承しようという意思を強く持って「居酒屋かき舟」を創業した。
4 大阪市の土佐堀川(淀屋橋付近)には「かき広」が係留され営業している。1920年創業で現在の船もそのとき建造されたもの。戦後も昭和30年代までは、市内の堀のあちこちにカキ船が係留されていたというが、現在は「かき広」が残るのみである。
5 長野県松本市の惣堀にも「かき船」という屋号のカキ船が係留されている。初代の店主は、父親が広島の矢野出身で金沢市の犀川でカキ船を営業していたが、代替わりの際に犀川のカキ船は叔父が継承し、自身は新天地を探した結果、松本での営業を決意。矢野でカキ船を新造し、1933 年に現在地で創業した。
6 倉敷市の高級旅館「旅館くらしき」は、もともと「かき増」というカキ船から出発している。最初、矢野出身者が1897年に倉敷川の水上で創業。1944 年に陸上がりし、敗戦直後に旅館に転業した。
7 岡山市北区の苫田温泉にある旅館「泉水」は、矢野出身の初代が、元広島藩主浅野侯爵の命により1922年の東京博覧会において不忍池でのカキ船営業を行ない、博覧会終了後、浅野侯爵の斡旋で岡山市の西川でカキ船「西川かき舟」を創業(1925 年)したことを起源とする。戦時中にカキ舟は接収され、戦後、陸上での料亭経営を経て、1955年から現在地で旅館経営。「泉水」では、現在、創業88年を記念して、「西川かき舟」当時の復刻料理をメニューに加えている。
8 豊岡市の「かき船」は、矢野出身者が、矢野に髢(かもじ。日本髪を結う際の添え髪のこと。矢野の地場産業だった)の買い付けに来た豊岡の商人と知り合いになり、その人の紹介で大正年間に豊岡の今は廃川になっている旧円山川でカキ船を創業したのに始まる。円山川付け替え工事を機に1936年に陸上がりし、以後、現在地でカキ料理店「かき船」を経営している。
9 米子市の「かき船」は、もともと広島(詳しい場所は不明)から来て加茂川に係留していたカキ船を、料理屋をやっていた地元の福寿屋が昭和戦前期に買い取って継承し、その後1949年に現在地へ陸上がりしたもの。
10 高砂市の「かき幸」は、矢野出身の初代が1920年に高砂の堀川港にカキ船を係留して創業。敗戦の2 ~ 3年後に一度矢野に引き揚げたが、1962年に現在地で陸上のカキ料理店として再開。現在に至る。
11 加古川市の「かき庄」は、JR加古川駅付近を流れる用水路の上にカキ船を模した屋形を設えて営業している。大正末期に矢野出身の初代が創業したもの。
12 阪神大震災に被災するまで神戸市中央区中山手4丁目にあった「かき十」は、1873 年に矢野出身者が兵庫運河(神戸市兵庫区)の入江橋のたもとに係留したカキ船から出発している。大正年間に船から近くの陸に上がり、さらに戦後、中山手に移転した。
13 尼崎市の「かき金」も、矢野出身者が尼崎市の庄下川(西大手橋付近)に明治末期に係留したカキ船が起源。1941年に船を手放すが、戦後、1954年に阪神電車の高架下の陸上店舗で再開。2004年に阪神尼崎駅前の現在地に移転した。
14 新潟市中央区の高級料亭「かき正」は、矢野出身の初代が、明石で兄が経営するカキ船を手伝ったのち、1929年に新潟へ来て創業したもの。新潟では最初から陸上での営業であった。この人物は高浜虚子に師事した俳人でもあり、「かき正」を文化人の集う新潟有数の料亭に育て上げた。『櫻鯛』『海百句』という句集も刊行しており、そこには新潟の地で瀬戸内海を思って詠んだ句が多く収められている。
活動の課題
マーク・カーランスキー(2011)によれば、20 世紀になる以前のニューヨーク湾では大量のカキが採れ、これをマンハッタン島まで運んできた平底荷船はそのままハドソン川やイースト川に係留されて船上カキ市場が展開されていた。またイギリスでも、テムズ川河口部にカキの大量繁殖が見られ、ロンドンはカキの一大消費都市として知られていたという。地球規模での「カキをめぐる記憶と系譜」の探求とその中での瀬戸内カキ文化の位置付けが今後の課題である。