瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

瀬戸内海の石文化についての映像によるフィールドワーク

東京藝術大学 大学院 美術研究科 冨樫達彦

活動の目的

瀬戸内海地域は、古くから石をさまざまなかたちで生活のなかで活用し、石と人間の文化史とでもいうべきものを築き上げてきた。今日ではあまり顧みられることのない小さな歴史も、石はそれを記憶している。石にまつわる人々の記憶、人々が忘れかけている石の記憶をリサーチし、光を当て、今日の新しい記憶としてよみがえらせる。

活動の経過

はじまりは、豊島で取材を行った際に、日露戦争にまつわる話を聞いたことだった。旅順攻防戦において日本海軍がとった旅順港閉塞作戦のために、ダイナマイトと大量の石を積んだ沈船が用意されたが、豊島石もそのときに使用されたという記憶が、島にまだ残っていた。さらに、日本が占領していた当時朝鮮半島に建てたさまざまなモニュメントにも、同じく豊島石が多く使用され、今日でもそのうちのいくつかが残っているという。日本の近代史、特にその政治的な場面でも、瀬戸内の石が登場していたことを知り、以前訪れた女木島で聞いた、ある石にまつわる記憶を思い出した。それは、女木島の浜辺に海を眺めるように立っている一つの大きな戦没者碑なのだが、それに使われている石というのが、実はかつて大坂城築城のために与島から運搬途中だったものが、女木島沖で嵐に遭い、船もろとも海中に沈んでしまったのを、後世になって引き揚げたものであるらしい。その記憶の真偽を詳しく確かめるために、私は再び島を訪れた。

活動の成果

石碑の両側面を見てみると、一方には、1928年建立の文字が、他方には、1956年再建の文字が見える。1928年は昭和3年、1956年は昭和31年である。この女木島の戦没者碑は、正面に大きく「忠魂碑」と刻まれていることと、その揮毫者が一戸兵衛という日露戦争の旅順攻防戦において活躍し、その後在郷軍人協会の会長を務めた人物であること、さらにその建立の年代から推測して、もともと日露戦争の戦没者を祀ったものだと思われた。大原康夫の『忠魂碑の研究』によると、第二次大戦後、GHQによって、それが軍国主義的であるとの理由から忠魂碑の建設を禁止する条例が発布されると、それ以前に建立されたものも条項違反にあたるのではないかと恐れた地方の役人や市民によって、忠魂碑は壊されたり隠されたりしたという。女木島でおそらく最高齢だと思われる女性が、当時のことを鮮明に記憶しておられた。というのも、彼女の既に亡くなられた旦那様が、戦後まさに忠魂碑の再建へ向けて尽力されたその人であった。彼は、戦後シベリア抑留を経て帰国し、当時地中に埋められ隠されていた忠魂碑を、約10年がかりで再建された。奥様である彼女は、1956年の除幕式の写真を大切に保管されていた。さらにもう一人、女木島で潜り漁をされている漁師の方に、戦没者碑として引き揚げられずに、いまも海中に沈んだままになっていると言われるもう一つの石の場所を教えてもらい、その破片を採取することができた。リサーチの途中で、瀬戸内国際芸術祭2016の女木島会場で展示する機会をいただいたため、これらの成果を一つの作品にまとめ、多くの方に見ていただくことができた。

活動の課題

今回のリサーチで、瀬戸内海地域の石文化が、瀬戸内海地域、さらには日本国内にとどまらず、海のネットワークを介して中国、朝鮮、ロシアとの関わりをもっていることを知った。今後、日本海を内海として見るような大きな視座から、瀬戸内海地域の石の移動経路を眺めたいと思っている。

  • 女木島の忠魂碑(伝兵衛石)

  • 潜り漁師の方に、海中の石の場所をうかがう

  • 瀬戸内国際芸術祭2016での展示の様子