瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

「海鶴堂日記」の基礎的研究

立命館大学 萩原正樹

活動の目的

本研究は、自筆原稿である「海鶴堂日記」の電子データを作成し、それをもとに当時の尾道文化の詳細を知ろうとすることを目的としている。「海鶴堂日記」は尾道の豪商であった橋本海鶴が漢文で書いた日記である。尾道は古来より東西を結ぶ要衝であり、海鶴の日記には当時第一級の文人たちとの交流やその他の文化的な活動が記録されており、非常に重要な資料なのである。

活動の経過

「海鶴堂日記」は、現在おのみち歴史博物館に現物が保存されており、平成27年5月11日~12日に研究協力者とともに博物館を訪れて、「海鶴堂日記」(明治15年から大正12年に至るまで)の全ページを研究協力者とともに撮影した。
その後、アルバイトを雇用してテキストデータ化を進めていった。ただ分量が予想以上に多く、当初予定していた分量よりも少ないテキストしかデータ化ができなかったのが反省点である。
テキストデータ化した「海鶴堂日記」は、校正の作業を行いながら読み進め、尾道在住の文化人と漢詩文の会を開いている様子や、特に当時名の知られた漢詩人であった栗田(後に宇都宮と改姓)鶴渚との交流などに注目して研究を行っていった。当初の研究計画通りにはいかなかったが、ほぼ80%程度の達成率であったと考えている。

活動の成果

「研究の経過」にも触れたように、特に橋本海鶴と栗田鶴渚との関係に注目しながら本研究を行った。栗田鶴渚は今ではほとんど名を知られていないが、若い頃に東京に出て、当時一流の漢詩人であった野口寧齋や森川竹らと親しく交わった。二十二歳の頃に帰郷した後は、尾道で「別天地」という漢詩文雑誌を発刊して当地の漢詩人たちと盛んに交流し、また尾道商工会議所の事務員として働くなど、尾道の文化・経済の発展に大いに寄与した。その後は漢詩の世界から離れ、大阪朝日新聞の記者としても活躍している。今回「海鶴堂日記」を詳しく調査する機会を得たことにより、この忘れられた漢詩人・文化人である栗田鶴渚の伝記をある程度明らかにすることができた。詳細についてはなお分析中であるが、橋本海鶴と栗田鶴渚とは頻繁に交渉を持ち、書物の貸借をしたり、風流の会を開いたり、詩の応酬をしたりと周辺の文人らとともに盛んに活動していることが明らかになった。また栗田鶴渚の縁で、東京の文人と手紙を交わしたり、あるいは広島にやってきた文人を尾道に招くなど、中央の文人たちとの交流の様子もさまざまにうかがえる。橋本海鶴は豪商であり、自身も文化人であるが、いわば文化人たちのパトロンとして積極的に文化活動を行っていたのである。
今回の研究により、栗田鶴渚という、中央詩壇とも尾道文化人とも深く関わりを持った人物が鍵となり、尾道の文化がさらに洗練・発展していく様子を「海鶴堂日記」を通して知ることができた。「海鶴堂日記」が、いわゆる「尾道学」や明治期の地方文化を考える上で非常に重要な資料であることをあらためて認識した次第である。

活動の課題

今回は栗田鶴渚を中心に据えて「海鶴堂日記」を分析したが、「海鶴堂日記」にはなお分析すべき事項や、人物、当時の風俗などが多く、さらに細かな分析を行っていきたい。栗田鶴渚についてもまだ伝記が明らかでない部分も多く、さらに「海鶴堂日記」をテキストデータ化しながらその全貌を可能な限り明らかにしていきたい。

  • 「海鶴堂日記」巻五封面

  • 「海鶴堂日記」巻五の巻頭