瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

瀬戸内海沿岸の杣山と東アジア

九州大学 大学院 比較社会文化研究院 伊藤幸司

活動の目的

本研究は、12~13世紀における瀬戸内海沿岸の杣山が、日本列島のみならず、国境を越えた中国大陸とも密接なつながりがあったことを実証的に明らかにすることで、一見すると隔絶された山奥の世界が、実は瀬戸内海を経由した日中貿易により、優良材木のブランド産地として、東アジア世界で注目されていたという歴史的事実を掘り起こすことを目的とする。

活動の経過

瀬戸内海沿岸の杣山の一つとしてフィールドに設定した、山口県山口市の椹野川上流域と佐波川上流域(後者の川は防府市へ流れている)、同県萩市の阿武川上流域と大井川上流域に関わる文献史料の収集を行った。とりわけ、自治体史に代表される郷土誌については、適宜、山口県立山口図書館等を訪問し、情報の収集を図った。同時に、フィールドである宮野地域と徳地地域のフィールドワークも行い、特に中世前期の杣山からの材木の切り出しと密接に関わる法光寺(旧安養寺)では、堂内に記される重源の花押を確認し写真撮影した。
一方、日宋貿易によって中国大陸へ輸出された日本の材木に関わる史料を収集するために、四庫全書、四部叢刊などのデータベース、および江南地域の地誌などから関連史料の収集を行い、その分析をした。
以上の作業を経て収集した史資料を総合的に考察し、日宋貿易によって瀬戸内海の杣山から輸出される材木の動向を明らかにしようとした。

活動の成果

山口県山口市の椹野川上流域にある徳地地域は、瀬戸内海沿岸の重要な杣山として知られている。とりわけ、源平の合戦で焼失した奈良東大寺が、大勧進職重源の指導のもと、徳地の材木によって再建されたことは有名な話である。しかし、この杣山の存在は、重源が東大寺を再建する以前から、博多を窓口として展開していた日宋貿易の場で海商によって知られていた。日宋貿易の日本側の主要な輸出品として材木があったからである。徳地の杣山から切り出された材木は、佐波川を使って瀬戸内海へ流され、博多に集積され、中国大陸へと輸出されていた。しかし、この地域の杣山は徳地のみではなかった。重源関連の史料によると、佐波川と谷一つ西側を流れる椹野川上流域にあたる宮野地域にも杣山があった。さらに、徳地地域から分水嶺を越えた阿武地域にも杣山があり、日本海側へ流された材木は、現在の萩市外あたりに集積されていたと推測される。状況からして、これらの杣山の材木も大陸に輸出されていた可能性は高い。
一方、大陸へ輸出された日本産材木は羅木・倭羅などと表記されて中国側史料に登場する。日宋貿易によって輸出された羅木は、南宋社会の深刻な材木不足という社会状況もあいまって、非常に人気の商品となった。史料に見る羅木の評価は、安価で丈夫な愛でるべき材木とされている。なお、羅木とは中国大陸に産出しない檜木のことを示している。南宋期には、大陸で修行して日本へ帰国した入宋僧が、江南の寺院へ日本の材木を寄附することも珍しいことではなかった。
こうした研究成果の一部については、2016年10月2日に佐賀大学で開催された第15回多文化関係学会において「海域ネットワークと宗教」という報告を行った。

活動の課題

中国大陸における南宋期の建築様式をもつ建造物の現地踏査、およびさらなる中国側史料にみる日本産材木関連史料の収集を行い、その成果を「南宋と中世日本―仏教と材木―」(仮題)というタイトルで書籍にまとめようと考えている。