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- 塩飽諸島に「生き神様」として祀られた海援隊
瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ
活動の目的
本研究の目的は、塩飽諸島の本島(ほんじま)に、幕末維新の土佐「海援隊」隊士13名を「生き神様」として祀る「重三(とさ)神社」(十三神社)が建立(1870年)された経緯(小坂騒動鎮撫とその後)等を明らかにすることを通じて、瀬戸内海の水軍の伝統が維新後の国家建設過程とどのように交錯したかを考察することにある。
活動の経過
下記の通り、①文献調査、②現地調査、③一次史料の収集・分析を行った。
①文献研究
関連する先行研究や地方出版物等によって、海援隊の坂本龍馬暗殺後の活動、海援隊が塩飽諸島に進軍するに至った経緯、塩飽諸島の幕末維新期の状況、塩飽諸島の水夫・漁民の歴史と習俗、海援隊が鎮撫した「小坂騒動」の経緯などを明らかにした。
②現地調査塩飽
本島、小豆島、佐柳島、高松、丸亀で下記③のような現地調査を行った。塩飽本島では小坂騒動、海援隊による鎮撫、重三神社の建立の3点に関連した調査を行い、小豆島では小坂騒動鎮撫後の海援隊による小豆島統治に関連した調査を行い、佐柳島では海援隊に関わった島民の調査を行った。高松、丸亀では、海援隊が戊辰戦争を機に塩飽諸島・小豆島に進出するに至った経緯に関して調査を行った。
③一次史料の収集・分析
各地資料館・図書館の調査や現地フィールドワークによって一次史料(古文書)を収集した。また、現地調査ではオーラル・ヒストリーの収集、関連する遺構・建築等の確認と記録(写真、ビデオ)も行った。古文書の判読の一部は専門家に依頼した。
活動の成果
現在、重三神社と海援隊、あるいは塩飽本島と海援隊のつながりは島の人々からすっかり忘れられている。小坂騒動鎮撫後、海援隊が組織した梅花隊に塩飽諸島の多くの若者が参加したことについても同様である。これは、咸臨丸の水夫を塩飽諸島が輩出したことを塩飽の人々が今なお誇りに思い島内のあちこちで強調しているのと対照的である。
忘却の背景の一つには、長年、海援隊がタブー視されてきたことがある。小坂騒動は「人名(にんみょう)」(戦国時代以来の自治特権を持つ船方)と「間人(もうと)」(特権を持たない漁師)の間で死者を出した一種の階級闘争であり、幕藩体制の崩壊(戊辰戦争)にも連動したものであったが、塩飽では現在も人名の子孫の結束があり、間人を救済した海援隊は人名自治終焉の象徴的存在として忌み嫌われてきた(このことは史料収集、フィールドワークの障害ともなった)。もう一つの背景として、塩飽諸島の限界集落化が挙げられる。重三神社は小坂の住民(間人)が建立したものであるが、限界集落化により、小坂集落の共同体の記憶が失われつつある。
しかし、海援隊は小坂集落を救済する一方で、梅花隊においてはむしろ人名出身者を重用し、軍事訓練も施していたことが確認された。そして、その梅花隊を率いて小豆島の統治を行っていたことも明らかとなった。当時の小豆島は津山藩領と天領(幕府直轄地)に分かれていたが、海援隊は天領部分を津山藩との交渉で引き継いだ。小坂騒動にしても小豆島統治にしても、海援隊は武力を背景としながらも、和平交渉を優先し、これを成功させている。海援隊は人名の衰退に拍車をかける存在だったのではなく、むしろその「水軍」としての能力に期待し、これを維新後の秩序の中で利用しようとしたと評価すべきである。海援隊長の長岡謙吉はこの後、政府に「海軍」創設の建白を提出しているが、そこには塩飽の「水軍」の転用の意図があったと考えられる。
活動の課題
小坂騒動と重三神社については、海援隊、塩飽勤番所(人名)、小坂集落(間人)、下津井(漁業権で塩飽と対立)に、立場の違いを反映した内容の異なる記録やオーラル・ヒストリーが存在する。これらが散逸し集落の記憶から消失しないうちに、オーラル・ヒストリーの文書化、人名側史料(勤番所日記等)の保存・公開、史料批判に立脚した歴史分析等を行う必要がある。
小坂の大山神社境内の一画にある重三神社
海援隊が塩飽本島で本陣とした惣光寺
小豆島で海援隊が本陣とした清見寺