瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

伊吹島の朝鮮半島出漁調査・研究

伊吹島研究会 三好兼光

活動の目的

一昨年、伊吹島の網元の納屋改装時に見つかった朝鮮半島出漁の文書類30点余りを精査し、戦前瀬戸内海沿岸の漁民が多数朝鮮半島に出漁していたなかで、伊吹島の漁民がどのような歩みをしていたか、実態を明らかにする。戦争が激しくなる前に伊吹島に持ち帰った資料で、戦時色の濃い時代に出漁を継続してきたことがわかった。漁業を通じて日韓・日朝関係を考える資料としてまとめ、活用する。

活動の経過

伊吹島の漁民の朝鮮半島出漁は香川県では遅い出漁で大正3年から昭和20年終戦まで行われていた。30点余りの文書類に記録されている事柄を理解するために、①原資料の整理、解読、②伊吹島の漁民の朝鮮半島での足跡調査、③香川県の朝鮮半島出漁のさきがけとなったさぬき市小田、津田地区の現地調査、④朝鮮半島出漁の先行研究として『香川県海外出漁史』、『朝鮮水産開発史』等を読み、出漁していた市町村誌を調査、⑤伊吹島に残っている出漁の記録の調査、⑥朝鮮半島出漁経験者から話を聞く等の計画を立て実行した。⑥の朝鮮半島出漁の経験者を探したが亡くなっており、聞くことができなかったが、小学生時代の何年間かを朝鮮半島で過ごした人から当時の暮らしを聞くことができた。
今年は瀬戸内国際芸術祭秋会期開催が伊吹島でもあり忙しかった。終了直後に秋晴れの韓国に行き伊吹島の漁船が入港した釜山、方魚津、甘浦、九龍浦の港町を訪ねた。マイワシの魚肥工場は北朝鮮、長箭、新浦にあり、行けなかった。

活動の成果

活動①~⑥を実施し、伊吹島の漁民の朝鮮半島出漁の実態が見えてきた。1年間の調査・研究をまとめ、20頁の報告書としてまとめた。『伊吹島朝鮮半島出漁の記録~網元が持ち帰った資料から見えてくるもの~』として400部印刷し、県市町村の図書館、調査に協力していただいた方々、漁協、網元、伊吹島の小中学校、公民館等に置いていただいた。
伊吹島の朝鮮半島出漁は香川県の3大母村(さぬき市小田、津田、伊吹島)の中では遅く、大正3年より出漁している。伊吹島は良質のイリコの加工で知られているが、江戸時代から鯛の産地でもあった。鯛漁が終わったあと、鯵、鯖を獲り、イワシ漁をしていた。島の周りがいい漁場であったので、朝鮮半島まで出漁するまでもなかったが、大正初期の鯛漁不漁から朝鮮半島に渡った。釜山から北上し、縛り網で鯖を獲っていた。巾着網に変え、方魚津、甘浦、九龍浦と鯖を追って、漁場開拓をしながら東海岸を北上していった。北鮮でマイワシが大量に獲れるようになり、北朝鮮の長箭、新浦に魚肥工場を建設し、マイワシから魚油(戦争中で代用油として使用する、化学製品の原料として貴重)、絞粕は肥料として輸出している。
昭和17年の油肥工場経営の帳票類には、現地の人の雇用、賃金、戦時の統制経済の通達等が含まれている。飛行機を飛ばしてマイワシの魚群を見つけることもしている。戦争が激しくなり、昭和17年でマイワシ漁は終わっている。朝鮮半島出漁最後の帳票類ともいえる。終戦後、工場はそのままにして、着の身着のまま、帰国している。伊吹島の朝鮮半島出漁の実態を原資料で知ることができた。日韓、日朝の今後を託される若い人たちにも読んでいただきたい。

活動の課題

日韓併合、国家総動員法、太平洋戦争等戦時色の濃い時代で、日本の統治の時代の出漁の記録をまとめることができたが、日本側の記録であり、朝鮮半島側の現地の人がどのように思っているのか、今後も調査を継続する。
朝鮮半島の漁業の振興に最新の技術、漁法をもって貢献してきたと私は思っているが、略奪と強制と思われているかもしれない。双方向の研究が望まれる。

  • 伊吹島の網元の納屋から見つかった帳票類

  • 伊吹島の漁船の寄港地。北鮮で魚肥工場を経営

  • 無動力船時代の出漁。櫓と帆で玄界灘を渡る