瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

「近代法の翻訳者」山成哲造の研究

神戸大学 小野博司

活動の目的

本研究の目的は、19世紀後半に明治政府が、国家建設および条約改正のために行った「近代法の継受」に対して、外国法令や法学書の翻訳を通じて貢献した人物(「近代法の翻訳者」)、特に現在では「忘れられた存在」になっている人物の掘り起こしである。具体的には、著名な漢学者阪谷朗廬の弟子で、芳井出身の山成哲造の経歴と、その「近代法の翻訳者」としての活動の解明を目指した。

活動の経過

未知の「近代法の翻訳者」を発掘するために、法務図書館所蔵『吾園叢書』を調査する過程で、井上勤とともに、トマス・ジェファーソンのA Manual of parliamentary Practiceの翻訳を担当した「山成哲造」の名を知った。幸い国立公文書館で彼の履歴書を発見することができたので、それを手掛かりに、経歴と活動を明らかにしようと考えた。
 まず彼の出身地である岡山を訪ね、県立図書館の郷土資料部門で調査を行った。その結果、田中誠一編『備作人名大辞典(乾巻)』(備作人名大辞典刊行会、1939年)に詳細な経歴が記されていることを発見した。これにより、山成が芳井の出身で、興譲館とゆかりの深い人物であることが判明した。そこで、井原市文化財センター所蔵の『明治十四年十月 山成家年代記』(複製)、興譲館高校所蔵の「坂田警軒宛書翰」をはじめとする資料の閲覧・複写を行った。他方で、官員時代(統計院、元老院、臨時帝室制度取調局)の活動を知るために、法務図書館、国立公文書館、国立国会図書館、宮内公文書館、一橋大学等で調査を行い、資料を収集した。

活動の成果

調査の結果判明した、「近代法の翻訳者」山成哲造の経歴は、以下の通りである。
弘化元年12月、山成家6代当主政右衛門の子が立てた、分家(中屋)の2代目武次郎の次男として生まれた。しかし幼少時に父が死亡したため、本家(本山成)で養育され、後に9代当主直蔵の娘恭の夫阪谷朗廬の下で漢学を学んだ。このとき、兄弟のように交わったのが、朗盧の甥で、興譲館第2代館長の坂田警軒であった。山成は、朗廬とその家族とともに広島、東京へと移った。
明治5年1月に慶應義塾に入塾し、卒業後、横須賀造船所に勤務した。退職後は翻訳業に専念し、教育関係の英書の翻訳を行った。師である朗廬は、家庭の事情で洋学を学ぶことができなかったので、山成が英学を学んだのは朗廬の導きによるところと考えられる。
明治15年3月に統計院に採用された山成は、統計に関する外国書籍や統計資料の翻訳を行った。彼の訳業が、日本における「統計」の導入に大きく貢献したことは容易にうかがえるところである。
山成は、明治19年12月に元老院に採用され、明治22年1月からは帝室制度取調局書記を兼任した。彼が「近代法の翻訳者」としての活躍したのは、この時期のことである。担当したのは、第一には、ジェファーソンの『議会手引慣行』を含む、英米の議会運営の実態に関する文献・新聞の翻訳であり、また明治22年7月には、朗廬の息子芳郎との共訳で、ウォルポール(S.Walpole)の英国議会史に関する著作の翻訳を上梓している。もう一つは、ヨーロッパにおける貴族制度に関する資料である。これに当たるのが、宮内公文書館に所蔵されている『英独貴族制度略』である。

活動の課題

今回の調査で、山成の経歴と活動をかなり詳細に明らかにすることができた。しかし、明治23年9月に高等商業学校助教諭となって以降の経歴については不明であり、『備作人名大辞典(乾巻)』の記載内容を確認できなかった。今後は、元老院退職後の経歴について一次資料を用いて明らかにし、知られざる「近代法の翻訳者」としての彼の生涯を描きたい。