瀬戸内海地域振興助成成果報告アーカイブ

瀬戸内沿岸地域における洋楽普及と音楽網

大阪音楽大学 能登原由美

活動の目的

本研究は、日本に西洋音楽(以下、「洋楽」と総称)の流入が本格化した明治から戦前にかけての広島における洋楽普及の実態を明らかにするものである。まだ調査の行われていなかった明治期から昭和にかけての新聞・雑誌を中心とした一次資料をもとに、中央から広島に洋楽が流入する過程と、流入した洋楽が多くの市民や郡部の町村へと普及していく過程を「音楽網」として捉えることで瀬戸内沿岸地域の近代の音楽文化事情を明らかにする。

活動の経過

日本における洋楽普及の研究状況、および広島における研究状況を整理した上で、下記の調査を共同研究者と行うとともに、膨大な作業については研究協力者に協力を依頼した。
1.明治から太平洋戦争終了までの広島を中心とする瀬戸内地域の音楽情報について、新聞・雑誌記事の調査を行った。具体的には、『芸備日日新聞』、『中国新聞』、『呉日日新聞』、『山陽新報』、および『東京日日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』、『朝日新聞』の地方欄、また『音楽』、『音楽界』、『音楽雑誌』、『音楽世界』などの音楽雑誌の地方欄である。
2.広島県師範学校、および進徳高等女学校教員として、明治末から昭和にかけて広島の音楽教育界を牽引した渡邊彌蔵所蔵の音楽関連資料を調査した。
3.「岡山孤児院音楽隊」や「西備高等音楽隊」など、特定の組織の活動実態を調査するため、岡山県立記録資料館や福山市歴史資料室などにおいて資料調査を行った。
4.調査・抽出した記事などをもとに各種資料を作成した。すなわち、項目別/地域別の記録の作成、および広島で開催された音楽会プログラムの翻刻とリスト化である。資料の内容やリスト化については、共同研究者と随時打ち合わせを行うとともに、翻刻については研究協力者に依頼した。
5.広島・呉を中心とする洋楽普及とその音楽網について検討した。

活動の成果

広島が明治以降、国の施策として軍都、学都として位置付けられていったことはよく知られる。一方で、欧米同様の近代化を図る手段の一つとして位置付けられた洋楽が、広島のような地方都市にどのように流入し、どのように市民や郡部へと普及していったのかについてはこれまで考察されることはなかった。その理由の一つに、戦前、とりわけ明治期の音楽関連の資料がほとんど見つかっていないことが挙げられる。そうした中で、本研究において、新聞・雑誌や音楽会プログラムなどの一次資料の調査によって、当時の音楽の記録が資料として作成されたことは大きな成果の一つと言える。本研究において作成した記録資料については、現在、公刊の準備を進めている広島の洋楽史を編纂した資料集に組み入れて公表する予定である。
一方、調査をもとに抽出した記録と史実から、本研究の課題でもある広島の洋楽普及とその音楽網に焦点を当てた考察も行った。そのうち、広島で洋楽の流入と普及が始まった明治期に関する内容については新たな発見もあったことから、広島芸術学会第122回例会で報告した。すなわち、明治期の新聞・雑誌記事調査の結果、広島では洋楽は軍楽隊(呉海兵団軍楽隊)と官製の教育機関(広島県師範学校、広島高等師範学校)を介して中央から流入し、さらにそうした機関が行う演奏会や講習会を通じて、市民や郡部の町村に伝えられていったとみられることを報告した。ここで強調したいのは、市民や郡部への普及に関する点である。広島県師範学校教員が郡部でも行っていた講習会開催の記録や「広島音楽隊」といった民間団体の存在とその活動などが本研究の調査により初めて確認されたが、こうした明治中期の広島の音楽史実の発見は大きな成果の一つと言える。それは広島にとどまらず、明治期の地方都市の洋楽普及に関する研究を見渡したなかでも、確認の取れた数少ない史実の一つになることは間違いないと思われる。

活動の課題

本研究で調査した資料をもとに明治から戦前にかけての広島の洋楽史を編纂し、各種資料とともに史書として公刊する予定である。一方で、新聞・雑誌には掲載されなかった史実や記録についての調査を行うとともに、広島・呉を中心とする瀬戸内沿岸地域の洋楽普及の特徴をより明確にするためには、他の地域との比較・考察を行う必要があるだろう。また史書については、戦後編の公刊も行うことで、洋楽が地方都市に浸透するまでの過程をたどる予定である。